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tonbo1116

Author:tonbo1116
毎日まったり生きている文化系アウトドア派男子です。
真言宗で、お坊さんとして活動中です。
他にも東京YMCAでボランティアリーダーをしたりしています。twitterもやってます。http://twitter.com/tonbo1116
得ることを期待しないで見ていってくださいねー。


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DATE: CATEGORY:仏教
ここ二年くらい、TBSラジオの「宇多丸のウィークエンドシャッフル」というボンクラな番組にものすごーくハマっておりまして、ラジオイベントに行ったり毎週エアチェックしたりしています。

そこで、しばらく前に『DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on少女たちは傷つきながら、夢を見る』映画評論のポッドキャストとその後の放課後DA話①放課後DA話②を聞いて奇説が思いついたので晒しておこうかなと思いました(どれも音声でます)。

『DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on少女たちは傷つきながら、夢を見る』はほとんど上映が終了していますが、ポッドキャストを聞き流せばどんな映画化はわかると思います。

まあ、どんな話かと言えばAKB48の2011年に密着したドキュメンタリーということです。
この映画、アイドルのキャッキャした裏側を取ったかのように見せかけたハードな戦場映画です。山場は西武ドームでのライブとAKB総選挙です。西武ドームでのライブでは身体的に追い詰められ倒れるメンバー続出の様子を映し、総選挙では精神的に追い詰められてボロボロになる少女たちの姿が映し出されています。しかし、その中でメンバー間の絆や誰かの力になれるアイドルの強さや喜びもしっかり取られてります。

で、思うのですがAKBというシステム=輪廻というシステムに似てるなーって思ったんです。
ここで、「こいつなにいってんだ?ww」くらいに思ってもらえるとありがたいです。

まず、自分が輪廻をどう捉えているかというかと言うと、、、ものすごく悩んでいます。
死後の世界は仏教的には「無記(語り得ない)」という立場でもあるし、仏教は伝統的に輪廻説と解脱を解きますし、輪廻はないとするラディカルな仏教理解もあり、自分自身どうしたものかと悩んでいます。

ただ、最近「この方向かな」と思っているのが、「輪廻とはストーリーであり、解脱とはそのストーリーからの離脱」なのかと思い始めています。ただ、突っ込まれると言葉に窮する程度の思いなのですが。

輪廻というストーリーを刷り込まれているから死が恐怖になる訳で、解脱とはその刷り込みから離れることなのかなと思っています。

で、ここから妄想がはじまるのですw
もし、自分がAKBのメンバーと話す機会があったとします。
私「輪廻とはストーリーでそのストーリーを信じる以上、喜怒哀楽の苦しみを受けるんですよ。だから、ストーリーからの離脱、解脱が救いになるんですよ」
メンバー「そうなんですかー。わかるけどピンとこないですねー」
私「じゃあ、あなたはAKB辞められますか?」
メンバー「えッ・・・。」
私「あなたはAKBというストーリーの中にいる以上、総選挙で精神的に傷ついたりライブで身体的に追い詰められたりするんですよ。それから離脱してしまえば苦しみはなくなりますよ」
メンバ「・・・。」
私「つまり、輪廻からの解脱のリアリティーってそうゆうもんです。」

みたいなことを妄想するんですよね。AKBの内部にいるってことはその内部で喜怒哀楽があり、順位を上げるために努力することは輪廻でよりよい世界に生まれ変わるために精進することで、順位を上げるための努力が必ずしも報われないのは精進をしたところでどの世界に生まれ変わるかは死ぬまで分からないということに例えられるのかなと思います。

まあ、AKBに限らず色々なところに同じ構造があるのかと思いますが。
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DATE: CATEGORY:仏教
この話の元ネタは修行時代の先生から頂いたものです。

でも、これがなかなか腑に落ち乗るので紹介します。

その名も『仏教ウィスキー論』です。不飲酒戒はどうした!とかはまあ置いといて。

仏教はウィスキーみたいなもので、釈尊は名バーテンだということです。

バーテン・釈尊はある日、本当においしい『仏教』という銘柄のウィスキーを発見しました。

このおいしさを伝えようとしましたが、周りのお客さんにはウィスキーを飲んだことがありません。

そこで、周りのお客さんが飲みやすいようバーテン・釈尊はお客さんに合わせて、炭酸で割ってハイボールにしたり、コーヒーにいれてアイリッシュ・コーヒーにしたりしました。

そうするとウィスキー『仏教』になれた人達が出てきたので、段々とお湯割り、水割り、と進めていって最後にストレートを出せるようになりました。

このウィスキーの割り方が宗派に当たるわけです。

まあ、そうなってくるとこんな人が表れるわけですね。

「ストレート以外のウィスキー『仏教』の飲み方はけしからん!それじゃ飲んだことにならん!」

うーん、正論と言えば正論ですね。そりゃストレートが一番風味が出てて、通ごのみでしょ。

でも、そんなこと言ってたらウィスキー『仏教』を飲む人が少なくなってウィスキー仏教が廃番になってしまうかもしれないし、そうゆう押しつけがましいおっさん嫌いです(酔うと自分もそうかもしれませんが・・・w)

「どんな飲み方だってウィスキー『仏教』を飲んでるには変わりないじゃん。まあ、ストレートの味も知っていた方がいいけどね。」私はこのくらいの立場が好きです。

ハードコアにはハードコアの魅力があるけど、ちょっと押しつけがましくてうっとうしい。「こまけぇことはいいんだよ、うまいんだから」ぐらいでみんなでバーテン・釈尊の周りでわいわいやる方が好きです。
DATE: CATEGORY:仏教
一気に天気が晩夏から晩秋へ変わってしまったため、体がついていきません。もう、鼻水がダラダラです。こうゆう時は喘息も出やすいので恐怖です。

と、まあ、私の無内容な健康報告は置いといて、今回は『「悟り」とはなにか』という質問をゴリさんから頂きましたので、それについて書こうと思います。 

まあ、こんなαにしてωのような質問を・・・。どこから切り込んでいこうか・・・。

とりあえず言えることは釈尊は悟りの定義をしていない、ということです。たまに「悟りとは四諦や八正道、四法印です」みたいな解説を見ますが、これは違います。四諦八正道四法印は教えであって、悟りの定義ではありません。

これには筏のたとえ」というものがあります。川を渡るとき筏はとても重要です。ガンジス川やナイル川くらいなれば筏がないと向こう岸まで着けません、たぶん。しかし、川を渡り切ってしまえば筏はいらないですよね?つまり、筏は川を渡る手段に過ぎない。
此岸(煩悩の世界)から彼岸(悟りの世界)に渡ってしまえば筏である教え(四諦八正道など)は必要ないということです。逆に彼岸(悟りの世界)から此岸(煩悩の世界)へ助け舟を出すときにはまた筏(教え)が必要になってくるということです。

では、釈尊は悟りをなぜ定義しなかったのか?それは、定義できなかったのだと私は思います。なぜなら、悟りは体験だからです。

定義するということは言葉にする、ということとイコールです。しかし、言葉は本質的に「切る」作用が必ずある。例えば「ビールは麦で出来ている」と言った瞬間に、ビールが麦以外で出来ている以外の可能性は切り落とされます。つまり「ビールは麦でできている」定義されるのです。

曖昧なだとわかりので、曖昧な部分をキッパリ切り分けて、わかりやすくするのが言葉の大切な働きです。

しかし、体験はくっきりはっきり言葉にできるのでしょうか?ビールを飲んだことのない人に、夏の暑い日に飲むビールののど越しと爽快感を、実際にビールを飲んだのとまったく同じように伝えられるでしょうか?初めて人を好きになった時の心の状態を人を好きになったことのない人に完全に伝えることができますか?

できないでしょう。ビールは飲まなきゃわからないし、恋をしないと恋する乙女の心はわからないでしょう。同じように悟りも悟らないとわからないのです。四諦八正道や空の理論で悟りのギリギリまで言語化できたとしても、それは完全な悟りの理解ではありません。それは、ビールを飲んだこともないのに、Wikipediaのビールの記事を覚えたとしても、ビールを飲むまでビールのことをわかったことにはならないのと一緒です。

ですから、教えは居酒屋やつまみ、はてはグラスやビール缶のようなものなのです。ビールを飲むために必要なものや飲みたくなる仕掛けが教えなのです。そして、それらはなぜあるかと言うと、ビール自体とそれを飲む行為のためにあるのです。つまり、悟りと悟るためにあるのです。

と、まあ、ここまで書いてみました。よくわからないことはビシッビシッ質問してください。答えられるかよりも答えようとして考えることが大切だと思うので(言い訳臭いw)。

でも、この先に仏教は進んで密教へと入って行くのです。言葉では表せないけど、絵を使ったらどうだ?体を使ったできるんじゃないかと。

この辺の話はまたいつか・・・。

あー、疲れた!!






DATE: CATEGORY:仏教

こう雨が降ったりやんだりの日は家で色々調べ物をするのに絶好の日!ギラつく太陽の下だと自分もギラつきたいし、ウジウジ調べ物をする気にもならないです。

ということで、今日は修行中に授けられた引導法をペラペラめくっていました。「引導法」は「いんどうぼう」と読みます。お葬式の時にお坊さんがするやつです。『引導を渡す』とか言うのはここから来てるようですね。

読んで字のごとく、亡者を引き導くことが引導の主眼です。宗派により引導ロジックは色々ありますが、真言宗では灌頂を授けて、即身成仏させるというロジックです。また、それによって地獄などの悪い世界に行かないように引き導く意味もあります。

たぶんどの宗派も共通しているのはお坊さんにしてしまうこと、きちんと比較したわけではありませんが。
職業選択の自由はありませんwまあ、お坊さんは職業ではなく生き方の問題ですがね。

生きている間に色々と忙しかったり事情があって仏道に励めなかった人に、亡くなって転生する間際に仏教の核心を伝えて、よい世界に生まれるようにするのが引導であり、仏教の究極の救済法なんですね。

ただ、引導に若干の違和感がないわけでもありません。僕は真剣に引導もしますし、お経も唱えます。相手が亡くなった以上僕にできることはそれしかありません。施主の方々を始め、親類縁者、ご友人などの人たちの願いを背負って亡者の幸せを願うのみです。

しかし、やはり仏教は生きている間に出会ってこそより意味深いものになるとも思うのです。仏教は「生」の宗教です。生きている「今」を大切にする宗教です。生きているうちに仏教に救われたり、悟りを目指したりすることこそが大切です。

とまあ、ちょっと硬めの文章になってしまいました(汗。まあ、あせらず色々なことを書いていきます。

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