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tonbo1116

Author:tonbo1116
毎日まったり生きている文化系アウトドア派男子です。
真言宗で、お坊さんとして活動中です。
他にも東京YMCAでボランティアリーダーをしたりしています。twitterもやってます。http://twitter.com/tonbo1116
得ることを期待しないで見ていってくださいねー。


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ひっそりと更新が滞り、ひっそりと更新しようかなと思います。

「私達日本人は~」とか「○○っていう活動は」とか言うことは多いかと思いますが、本当にその意見は「私達」「日本人」「活動」の意見なんだろうかと思ってしまいます。

それは自分もしくはお前の個人的な意見じゃないかと。結構気をつけていないとすぐに自分を大きなものと一体にして話したくなるもんです。

だから、私は極力一人称を最小限にするようにしています。だから、「私はこう思う」と言い方にするようにしています。例えば「日本人は~」みたいなことを話したい時は「私の考える日本人は~」みたいに話すようにしています。

「私達」や「日本人」全員がそう思ってなくても「私」はそうおもっていることは間違いないですし、その意見は私の発した意見なので「私以外の私達や私以外の日本人」もしくは「私と同じだと思う私達や私と同じだと日本人」へその責任を放散することもできないからです。

「一人称を最小限にする」ってくせは自分の考えが個人の考えなのか、集団で合意がとれているのかを考えるくせにもなります。

例えば「私達」を使いたい時は『この人たちとは意見が一緒だ』とお互いに確認しあっていることには「私達」と使うようにしています。逆にそれ以外は「私達」ではなく「私」なのです。

まあ、そんだけ気にしているしゃべり辛そうですが、自分ルールでお手盛りなのでしゃべりづらくもならないです。

みなさんも、意識してますか?
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DATE: CATEGORY:日々のできごと

もうすぐお盆ですね。といっても東京周辺は新盆(七月)なのであまり関係ないですが。

お盆と言えば、『棚経』です。

棚経は「たなぎょう」と呼んで、檀家さんの家や新しいホトケさん(亡くなられた方)のお家に行ってお経をあげる風習です。

うちのお寺は新しいホトケさんの家だけ回っていますが、お寺によっては全部の檀家さんの家を回るところもあります。

全部の檀家さんの家を住職ひとりで回りきるのはできないところが多いので、そうすると私のような若いお坊さんがお手伝いに行くことが多いです。

というわけで私も駆り出されて行ってきました。

ほとんど「突撃となりの晩御飯!」状態です。

『○○寺です、棚経に参りました~』とヨネスケのように声を掛け、「お仏壇はどちらですか」とヨネスケが台所へ突撃するように仏壇に突撃し、「それではお経を上げさして頂きます」とヨネスケが人の家の晩御飯を食べるようにお経を上げていきます。

そんなことを一日中繰り返し、あと数件で終わろうという、昼下がりのことでした。

ある一軒のお宅に突撃したときのことです。

ぱっと見は二階建ての築15年?くらいのきれいな一軒家でした。

いつも通り、ピンポンをならして「○○寺です。棚経に参りました。」と伝えると、九十歳に近いおばあちゃんがニコニコしながら出てきました。

「まあ、熱い中御苦労さまです。どうぞどうぞ、あがってください」と言って玄関を開けてくれました。

入ってみるとだいぶ散らかった玄関。だれか人が来ることを考えていたいような感じでしょうか。

「失礼します」といって草履を脱いで、仏間まで行きます。

仏間もお仏壇の前半畳くらいのスペース以外は衣類や荷物が雑然と置かれており、クーラーや扇風機もなく窓は空いているもののモワッとした空気が漂っていました。

内心『このお家大丈夫かな』と思いつつ、いつも通りお経をあげはじめました。私のうしろにはおばあちゃんが座イスにちょこんと座っています。

お経を唱え始めて数分、私のうしろでおばあちゃんが動く気配がしました。

「??」

と思いながらお経を唱え続けていると仏壇の横に手を伸ばしてきました。

「!!」

ネコがご飯を食べている時にちょっかいを出すとものすごく驚くように、お経をとなえている時近づかれたりするとものすごく驚くのです。

そうすると、仏壇の横から一枚のうちわを取りだしました。そしてうちわを持つと元の座イスに戻って行きました。

私は内心

『お経をあげている時くらい我慢できないのかな~。でもお年だしこの暑さだからしかたないかなとか考えていました。』

そんなことを考えていると、背中にやんわりとした風圧が。

これは、、、もしや、、、うちわであおいでくださっているのでは?

お経を唱え終わって後ろを振り返ってみると、おばあちゃんがゆっくりゆっくりとうちわを左右にあおいで、私に風を送っておられました。

マニアックな例えですが、『となりのトトロ』に出てくる電話を貸してくれる本家のばあちゃんみたいな感じですかな。

私はなんとなくジーンとしてしまいました。

本当に些細なことですが、自分だって暑いのにずっと他の人をあおいであげるささやかな気遣い。そして、それを当然として振る舞える品格。

そんな人に会えたことが本当にうれしかったです。

このような方にあるとつくづく、こんな年のとりかたをしたいと思うものです。
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他の人のブログ巡りをしていたら、ルイ・アームストロングの『what a wonderful world』が紹介されていました。

しゃがれたオッサンの声で素朴で無駄のない歌詞をこれでもかとかっこよく歌い上げています。

確か父のカーステレオからよく流れていたような気がします。だから、昔からなんとなーく好きな曲です。

ただ、この曲を聞くと下の映像がフラッシュバックのように思い出されます(ショッキングな映像がでますので、注意を)。


マイケル。ムーアの『ボーリングフォーコロンバイン』というドキュメンタリー映画のワンシーンです。

僕はこのシーンが大好きです。というか、『what a wonderful world』のイントロが始まると頭のプレイヤーでこのシーンが自動再生されてしまいます。

マイケル。ムーアの『ボーリングフォーコロンバイン』は日本でのマイケル・ムーアの出世作なので知っている人も多いと思います。1999年に起きたコロンバイン高校銃乱射事件をとっかかりにアメリカの銃を巡る有様をとらえた映画です。

その映画の中盤辺りでさっきの映像が流れます。

高校生の時に初めてこれを見たとき、流れるアームストロングの歌声と歌詞と正反対の映像に衝撃を受けつつ、強烈な皮肉というか演出にものめり込んだ気がします。

そして、色々なことを考えました。繁栄には代償が必要なのか。自分たちの繁栄はどんな代償の上になりたっているのか。この世界は素晴らしいのか醜悪なのか。自分が為政者ならどうするのか。繁栄のために代償を払うのか。繁栄を捨てるのか。

でも、一番強く感じたのは人間はこの曲のような素晴らしさと映像のような醜悪さの混在したな営みをずーっと続けていて、これからも続けてしまうんだろうな、ということでした。

なんとか素晴らしものを増やして、醜悪なもの減らしたいとは思うけど、なかなか難しいと思います。

できることは素晴らしいものも醜悪なものもすべて記録することをそれを見返すことかなと思います。

今、原発が繁栄と代償の象徴として日本にあります。そして、今派手に代償の支払いを求めています。その様子を記録し、見返すことが大切なのかと思います。

DATE: CATEGORY:日々のできごと
半年近く放置していましたね、このブログ。

何度か書いては消してを繰り返して、そのうちに年を越し、旧正月も過ぎ、春が近付いたかと思ったときに東日本大震災が起きていました。

この大震災の時、色々な言葉が溢れかえりました。いい言葉、悪い言葉、励ましの言葉、苦痛の言葉、不安の言葉、そして祈りの言葉。

Twitterでは『#prayforjapan』なんかが流行りました。

そんな中、僕がこれからの座右の銘にしようか思う言葉が見つかりました。

それは、MMBA(文殊師利大乗仏教会)が出した『東日本大震災のすべての被災者の方に心よりお見舞い申し上げます』という文章に引用されたシャーンティデーヴァというお坊さんの言葉です。

「苦しいときも悲しい時も菩提心という馬に乗って幸せを駆け抜ける」

菩提心は簡単に言えば、菩提(悟り)を求める心。もうちょっと詳しく言えば、悟りを求める心と他者を利そうとする心、さらに信じる心です。

とくに「幸せを駆け抜ける」って表現が、こう、なんだかさわやかで気に行っています。

今回の大震災で目まいがするほどの苦しみや悲しみの光景を浴びました。

そんな時こそ、僕は菩提心を強く思うのです。

きっと、それぞれの人に「苦しいときも悲しい時も○○という馬に乗って幸せを駆け抜ける」の○○があるでしょう。それは神かもしれませんし、思い出かも知れません。

ただ、なんであれ○○がある人は常時であろうと非常時であろうとしなやかな強さをもっているのだと思います。


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いつかTwitterかどっかに書いた気もするけど、まとまって書いていなかったと思うので、書いてみる。

いつかの帰り道にふと思い浮かんだコンセプト。

それが『受け止める神』

全知全能かどうかは置いといて、子どもから大人になる過程で大抵の人は『願いをかなえる神』ってものに疑問を持ち始める。僕もそうだ。どんなに願ったってスーファミは買ってもらえなかったし、どんなに願っても好きなあの子とは付き合えなかった。

じゃあ、神はなんのために存在するのか?

それは受け止めるためだ、というのがいつかの帰り道にふと浮かんだ神の役割だった。

誰にも言えない悩みや人間や社会に願ってもどーしょもない願いを受け止める存在が神なのかと思う。「聞き届ける」も同じような意味かな。

そして、聞き届けられたと思う体験が神とつながる体験とでもいうのかなぁと思う。

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