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tonbo1116

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毎日まったり生きている文化系アウトドア派男子です。
真言宗で、お坊さんとして活動中です。
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DATE: CATEGORY:日々のできごと
「あいつ死んじゃったらしいよ」

そんなメールのことをたまに考える。

この時の『あいつ』って誰か他人のことを思い浮かべがちだけど、『あいつ』は自分かもしれない。

自分も「あいつ死んじゃったらしいよ」って言われる存在には変わりはない。

いつだって自分も他人も死の可能性がある。ただ、それを見てばっかだと生きられないから、見ないようにしたり、見えないようにしたり,されたりしている。

でも、「あいつ死んじゃったらしいよ」なんてメールは誰の都合も、日常も関係なく突然訪れる。

この言いようのない不安。死んだあいつも、あの人も、ニュースで流れる殺人事件も、自分だったかも知れない。

自分で命を絶ったあの人が自分に置き換わるかも知れない。そんな不安。恐怖。

きっとだれにでもあるのだと思う。死は誰にでも平等に訪れる。

そんなことを考えていると、どんどん死へ目を向けてしまう。

しかし、ずっと目を向けてたって仕方がない。死にも目を向けるなら、生にも目を向けたっていい。

生きている人間に平等に死が訪れるように、生きている人間には常に平等に生が訪れている、訪れ続けている。


だから、僕は祈る。

今、死にしか目を向けられてない人に。今、この瞬間に、訪れ続けている生に目を向けられることを。

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僕のよく見ている有料ビデオニュース配信サイト「videonews.com」です。下のビデオは有料配信なので会員登録しないと見れないです、一部無料配信もしているので興味があったらご覧ください。

マル激トーク・オン・ディマンド 第492回(2010年09月18日)
クジラ肉裁判から見えてきたもの
ゲスト:星川淳氏(グリーンピース・ジャパン事務局長)

http://www.videonews.com/charged/on-demand/491500/001551.php

ちょっと前にグーリンピースジャパンが捕鯨肉が横領されているという内部告発を受けて、配送途中の鯨肉を告発用に倉庫から持ちだしたという事件がありました。

まあ、詳しいことは動画を(会員になってもらって)見て頂いたり、サイトの要約をみていただいて、今日はだいぶ脱線して、「どうして日本で内部告発が増えないのか」っていうことを考えてみたいと思います。

内部告発者やそれを支援する社会システムや法制度が整備が不十分ということもあるかもしれませんが、そうゆうものが整備されてもすぐに内部告発が増えるかは私には疑問があります。

内部告発が増えない原因は「神の御前に立った時に」という考え方がない、ということが重要なのではないかと思います。例えば内部告発をすると、自分も周りの人間も傷ついたり破滅したりし、しかも言わなければバレないとします。その時、神の御前に立つことを考える人間は神の御前で「善」なることはなにかを考える。神の御前では世間や条件は通用しない。自分が神の前に立った時、「これがすべての条件を取り払った上での善なるもの・行為です」と言えるように行動したいと思うはずです。もしくは、神の御心に叶う善なるものは何なのか思い悩んだり、神の御前に立てないようなことをしている自分に苦しみもだえるはずです。

だから、自分や周りの人間を脅かすことになっても、善なる心に従って内部告発をするのでしょう。

では、日本ではどうか?日本には神や仏の御前に立ってという観念は希薄です。それよりも「世間に迷惑をかける」「世間の目」というように「世間」が善悪の基準となっている傾向が強いです。神の御前のような絶対的な善というよりも世間は社会のなかでの相対的な善という面が強いです。

例えば「家族が傷つくから内部告発はしない」とか「会社がつぶれるから」という言い訳を神は許さなくても世間は許す可能性があります。そして、世間は時が経ったり、世間が変われば忘れたり許されたりします。しかし神の御前に立つことを考える人には永遠に残ります。

だから、世間を中心に考える日本人には内部告発をする動機が神の御前に立つことを考える人達より薄いのだろうと思います。

「神の御前に立つ」という考え方はどうしても本当の「善」とはなにか、本当の「善」に従って行動しなくてはいけない、という動機付けには凄く有用だと思います。べつに神ではなくても、永遠の相であってもいいし、自分の崇高な魂といってもいいでしょう。まあ、神を使いのは手っ取り早い方法だと思います。

ただ、今の学校教育だと神だとか仏だとか持ちだせないので、難しいなあとは思います。

そろそろ、眠くなってきたのでこの辺で終えようと思います。

おー、眠いzzz
DATE: CATEGORY:仏教
一気に天気が晩夏から晩秋へ変わってしまったため、体がついていきません。もう、鼻水がダラダラです。こうゆう時は喘息も出やすいので恐怖です。

と、まあ、私の無内容な健康報告は置いといて、今回は『「悟り」とはなにか』という質問をゴリさんから頂きましたので、それについて書こうと思います。 

まあ、こんなαにしてωのような質問を・・・。どこから切り込んでいこうか・・・。

とりあえず言えることは釈尊は悟りの定義をしていない、ということです。たまに「悟りとは四諦や八正道、四法印です」みたいな解説を見ますが、これは違います。四諦八正道四法印は教えであって、悟りの定義ではありません。

これには筏のたとえ」というものがあります。川を渡るとき筏はとても重要です。ガンジス川やナイル川くらいなれば筏がないと向こう岸まで着けません、たぶん。しかし、川を渡り切ってしまえば筏はいらないですよね?つまり、筏は川を渡る手段に過ぎない。
此岸(煩悩の世界)から彼岸(悟りの世界)に渡ってしまえば筏である教え(四諦八正道など)は必要ないということです。逆に彼岸(悟りの世界)から此岸(煩悩の世界)へ助け舟を出すときにはまた筏(教え)が必要になってくるということです。

では、釈尊は悟りをなぜ定義しなかったのか?それは、定義できなかったのだと私は思います。なぜなら、悟りは体験だからです。

定義するということは言葉にする、ということとイコールです。しかし、言葉は本質的に「切る」作用が必ずある。例えば「ビールは麦で出来ている」と言った瞬間に、ビールが麦以外で出来ている以外の可能性は切り落とされます。つまり「ビールは麦でできている」定義されるのです。

曖昧なだとわかりので、曖昧な部分をキッパリ切り分けて、わかりやすくするのが言葉の大切な働きです。

しかし、体験はくっきりはっきり言葉にできるのでしょうか?ビールを飲んだことのない人に、夏の暑い日に飲むビールののど越しと爽快感を、実際にビールを飲んだのとまったく同じように伝えられるでしょうか?初めて人を好きになった時の心の状態を人を好きになったことのない人に完全に伝えることができますか?

できないでしょう。ビールは飲まなきゃわからないし、恋をしないと恋する乙女の心はわからないでしょう。同じように悟りも悟らないとわからないのです。四諦八正道や空の理論で悟りのギリギリまで言語化できたとしても、それは完全な悟りの理解ではありません。それは、ビールを飲んだこともないのに、Wikipediaのビールの記事を覚えたとしても、ビールを飲むまでビールのことをわかったことにはならないのと一緒です。

ですから、教えは居酒屋やつまみ、はてはグラスやビール缶のようなものなのです。ビールを飲むために必要なものや飲みたくなる仕掛けが教えなのです。そして、それらはなぜあるかと言うと、ビール自体とそれを飲む行為のためにあるのです。つまり、悟りと悟るためにあるのです。

と、まあ、ここまで書いてみました。よくわからないことはビシッビシッ質問してください。答えられるかよりも答えようとして考えることが大切だと思うので(言い訳臭いw)。

でも、この先に仏教は進んで密教へと入って行くのです。言葉では表せないけど、絵を使ったらどうだ?体を使ったできるんじゃないかと。

この辺の話はまたいつか・・・。

あー、疲れた!!







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