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tonbo1116

Author:tonbo1116
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DATE: CATEGORY:仏教
一気に天気が晩夏から晩秋へ変わってしまったため、体がついていきません。もう、鼻水がダラダラです。こうゆう時は喘息も出やすいので恐怖です。

と、まあ、私の無内容な健康報告は置いといて、今回は『「悟り」とはなにか』という質問をゴリさんから頂きましたので、それについて書こうと思います。 

まあ、こんなαにしてωのような質問を・・・。どこから切り込んでいこうか・・・。

とりあえず言えることは釈尊は悟りの定義をしていない、ということです。たまに「悟りとは四諦や八正道、四法印です」みたいな解説を見ますが、これは違います。四諦八正道四法印は教えであって、悟りの定義ではありません。

これには筏のたとえ」というものがあります。川を渡るとき筏はとても重要です。ガンジス川やナイル川くらいなれば筏がないと向こう岸まで着けません、たぶん。しかし、川を渡り切ってしまえば筏はいらないですよね?つまり、筏は川を渡る手段に過ぎない。
此岸(煩悩の世界)から彼岸(悟りの世界)に渡ってしまえば筏である教え(四諦八正道など)は必要ないということです。逆に彼岸(悟りの世界)から此岸(煩悩の世界)へ助け舟を出すときにはまた筏(教え)が必要になってくるということです。

では、釈尊は悟りをなぜ定義しなかったのか?それは、定義できなかったのだと私は思います。なぜなら、悟りは体験だからです。

定義するということは言葉にする、ということとイコールです。しかし、言葉は本質的に「切る」作用が必ずある。例えば「ビールは麦で出来ている」と言った瞬間に、ビールが麦以外で出来ている以外の可能性は切り落とされます。つまり「ビールは麦でできている」定義されるのです。

曖昧なだとわかりので、曖昧な部分をキッパリ切り分けて、わかりやすくするのが言葉の大切な働きです。

しかし、体験はくっきりはっきり言葉にできるのでしょうか?ビールを飲んだことのない人に、夏の暑い日に飲むビールののど越しと爽快感を、実際にビールを飲んだのとまったく同じように伝えられるでしょうか?初めて人を好きになった時の心の状態を人を好きになったことのない人に完全に伝えることができますか?

できないでしょう。ビールは飲まなきゃわからないし、恋をしないと恋する乙女の心はわからないでしょう。同じように悟りも悟らないとわからないのです。四諦八正道や空の理論で悟りのギリギリまで言語化できたとしても、それは完全な悟りの理解ではありません。それは、ビールを飲んだこともないのに、Wikipediaのビールの記事を覚えたとしても、ビールを飲むまでビールのことをわかったことにはならないのと一緒です。

ですから、教えは居酒屋やつまみ、はてはグラスやビール缶のようなものなのです。ビールを飲むために必要なものや飲みたくなる仕掛けが教えなのです。そして、それらはなぜあるかと言うと、ビール自体とそれを飲む行為のためにあるのです。つまり、悟りと悟るためにあるのです。

と、まあ、ここまで書いてみました。よくわからないことはビシッビシッ質問してください。答えられるかよりも答えようとして考えることが大切だと思うので(言い訳臭いw)。

でも、この先に仏教は進んで密教へと入って行くのです。言葉では表せないけど、絵を使ったらどうだ?体を使ったできるんじゃないかと。

この辺の話はまたいつか・・・。

あー、疲れた!!






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コメント

とすると、「悟り」とは何か?ってことを哲学的に考えることに意味を見出せなくなってしまう俺。

ビールならば、居酒屋に行けば飲めるし、コンビニ行けば買えるから、すぐに体験できる。

でも「悟り」は、誰でもなかなか体験できないことだからこそ、真実を切り取ったものだとしても、言語化して欲しいというジレンマ。

そして、悟りの場合、本人の内奥の問題なので、「宇宙飛行士が地球を見た時の気持ち」のように、誰もが簡単に体験できるものではないけど、明らかに体験した人としての確証がない。

悟りの体験は人類の誰にとっても共通、不変の至高なものなのでしょうか。

それともビールのように、「まずい!好きくない!」って人もいるような体験なのか。


筏としての教えや悟りをギリギリまで言語化したものが、お経であったり論書であったりします。「ビールは炭酸」「ビールは黄色い」といったぐらいの体験の言語化はされています。仏教も言葉を尽くして言語化をしています。しかし、最後は言語を超えて体験へ、と思います。

もし、悟りが真実ならば好き嫌いというよりも、受け入れざるをえないものかと思います。僕は悟りの体験は人類共通の普遍的で至高のものだと思います。ただ、それを目指すかどうかはそれぞれだと思いますが。

なるほどね。

となると、悟った人の体験を言語化したものは、通底しているものが大きいということだよね?

源氏物語を現代語訳したように、現代の人間にもわかりやすく体験を切り取って語っているようなものはありますか?

あとは、悟りが人類普遍のものだとして、仏教、密教だけでなく、キリスト教やイスラム教を信奉している人にも、悟って「悟り」について語っている人はいるものなのか。

あらゆる宗教、信仰の立場から、また、全く信仰のない人の立場からの方法論も知りたい。

毎度長くてすいません。

そうです。文化や言語による違いはあっても通底しているものがあるはずです。

うーん、それは悩みますね。わかりやすくはないですが、僕はC=トゥルンパというチベット僧の本は好きです。あと仏教以外ですがクシュナムルティの本はいいですよ。
あと、岩波文庫から『ブッダのことば』や『ブッダ最後の旅』などが出ているので、遠回りかも知れませんが、生きた釈尊の様子がわかるのでいいと思います。

仏教以外にも「悟り」という言葉を使ってはいなくとも似たようなことを感じたり語ったりしている人はいるはずですよ。

詳しくはまた日を改めてブログで考えを書きますね。

う~ん。
ごりさんのブログからやってきましたものの。
二人のやり取りについていけません

とりあえず。
くろこげの知っているとんぼですかね?

失礼ですみません。

はい、くろこげの知っているとんぼです、たぶん(笑

よろしくですv-7

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